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最新情報

土日限定和洋菓子「WA YOU」6/20・21

今週の土日限定和洋菓子「WA YOU」は

「OMU」マンゴーとブルーベリーです。

当店特製のどら焼き生地に特製フルーツ

生クリームを挟みました。

甘みと酸味が詰まったブルーベリーと

この季節限定の国産マンゴーをトッピング

しました。本店限定、個数限定(お一人様4個)

商品です。

 

 

 

 

土日限定和洋菓子「WA YOU」6/13・14

今週の土日限定和洋菓子「WA YOU」は

クリームどらやき「OMU」のいちご、

マンゴーです。ふんわりとしたどら焼き生地に

生クリームとフルーツをトッピング。

酸味と甘みが凝縮された国産マンゴーを

使用したマンゴーはこの季節限定です。

本店限定お一人様計4個までの販売です

玄関にて

玄関はどんな時でも人を出迎え、

見送ってくれる。

いやな事、嬉しい事、つらい事

中と外で様々な感情が行き交う。

よくも悪くも思い出が詰まった大切な場所である。

 

今朝、出かけようとその玄関に向かい

通勤用のスニーカーを履こうと見ると

随分と汚れていた。

早く目覚めた事もあり、出勤前であるが

早々に洗う事にした。

 

その昔は風呂場でゴシゴシとタワシで

洗っていた。今では「KUTSU石鹸」

なるものがあり、専用ブラシに液体をつけて

磨くと見る見るうちに汚れが落ちていく。

気持ちが良いくらい。

めんどうな靴磨きが楽しくなる。

 

そのせいか?

 

玄関に脱ぎ捨てられた二回り小さい長男の

スニーカーも洗濯を「おねだり」しているように

見えた。

出勤までまだ時間がある。

「よしよし」と長男の分も洗うことにした。

 

「はて、長男は洗った事に気が付くだろうか?」

「おそらく気づくまい」そう思いながら

慣れない手つきで二足目の洗濯に入った。

 

二足目となると慣れてきた。集中力も落ちる。

いつもそうだ。集中力のない私は、気を抜くと

すぐ空想や妄想に入るが、明け方だったせいか

ぼんやりと薄暗い玄関が、空想している時の

モノクロの情景と重なった。

同時に走馬灯のように過去の玄関先での

出来事が再生された。

 

動画の登場人物は昨年末亡くなった叔母である。

 

叔母の家は当家から二軒隣り。

元は当家の母屋に住んでいたため、

親戚と言っても家族のような存在だった。

 

いつも用事がある時、呼び鈴を鳴らすと

こちらが玄関に出る前に部屋に入ってくる。

戸惑うスキさえ与えずに。

それが滑稽で自然で、とにかく憎めない

人だった

 

また優しかった。私には特に甘く「まあちゃん」

と50前のおじさんを捕まえて子供扱いする

のは叔母だけだった(笑)

 

そんな叔母に一度だけ叱られたことがある。

「甘音屋はお客様に来てほしいと宣伝するが、

来てくれたお客様に対して看板も出さ

ないのか!不親切な店だ!」と。

散々叱られた為、私の拘りを曲げて渋々作った

鉄の看板が、今も庭先でお客様を出迎えている。

看板を見ると当時の叔母とのやり取りを思い出す。

とにかく筋が通らないことは嫌いな人だった。

 

彼女は義人でもあった。

困った人に手を差し伸べ、助け、尽くし、

人の為に生きた人だったが、人一倍、

人に対して感謝を忘れない人だった。

「ありがとう」が口癖で、

心からあふれ出る感謝の気持ちを

素直に表現し、皆に伝えていた。

そんな彼女にはいつも人が集い、

私も叔母が好きだった。

 

叔母は冬になると決まって同じ話をしてくれた。

幼い頃、一緒に暮らしていた曾祖父の話である。

「あなたのひい爺さんは冬になるとストーブの上に

丸い石を並べていた。毎朝私が学校に行く前に

その石をハンカチにくるんで「行っておいで」

と手渡し見送ってくれた。

それはもう温かかったよ。今のようにカイロが

ないからね。

お爺さんは厳しかったけれど、とても優しい

お爺さんだったよ」と幼き少女のように話して

くれた。

親族びいきだが、良い話である。

 

曾祖父の孫への愛情が伝わり、孫である

叔母からの感謝が感じられた。

私はそんなカイロさえ無い時代に存在しないが

「感謝」「感動」「感激」が身近に溢れていた

気がする。

 

逆にモノが豊富にある今の時代にその全てが

遠く感じる。

 

ここから私見を述べさせていただく事を

何卒ご寛恕を頂きたい。

 

今回のコロナウイルス感染拡大について、

いきさつは別として「致し方ない出来事」である。

国のせいでもない。県のせいでもない。人でも

ない。悪いのはウイルスである。

そんな中で助成金や給付金が届き、

必要か否かは別としてマスクが届く。

ありがたいことである。

 

給付金が少ない?それは元々無いものであり、

頂けるだけありがたいことである。感謝せねば。

当店もこのコロナには相当悩まされ、苦しんだ。

今もなおである。

しかし、もっと苦しんでいる人もいる。

もっと言えばコロナに感染し、亡くなった人が

いるのである。医療の現場では命を懸けて

コロナと闘う人もいる。

そう考えたら「給付金が遅い」

「マスクが小さい」など言えたものではない。

まずは「感謝しなくては」と思う。

今、叔母が生きていたらそう言ったに違いない。

 

そんな叔母の事を思い出しながら2足目の

洗濯を終えた。

「息子は気づくかな?」

またそんな事を考えている。

私はまだまだ叔母のような義人とはいえない。

土日限定和洋菓子「WA YOU」6/6、6/7

今週の土日限定和洋菓子「WA YOU」は

「TSU  TSU MU MATCHA」です。

ふんわりとしたくちどけの良い抹茶生地に

濃厚な抹茶クリーム、いちごを挟みました。

本店のみの販売で、数量限定販売(お一人様

3個まで)です。

皆様のご来店心からお待ち申し上げます。

土日限定和洋菓子「WA YOU」5/30、5/31

今週から土日限定和洋菓子「WA YOU」を

再開致します。

今週は「TSU  TSU MU MATCHA」です。

ふんわりとしたくちどけの良い抹茶生地に

濃厚な抹茶クリーム、いちごを挟みました。

本店のみの販売で、数量限定販売(お一人様

3個まで)です。

皆様のご来店心からお待ち申し上げます。

あまねや 大津長松店 営業再開日の変更について

あまねや大津長松店ですが準備が整ったため、
当初より早く6月4日より下記の通り営業を
再開します
自短営業
販売10時〜18時
喫茶12時〜18時(メニュー制限有)
尚、当初再開日だった10日水曜日は
定休日となります

駅北店、長松店の営業再開について

自粛を致しておりました店舗について下記の通り

営業の再開を行います。

姫路駅北店

6月1日より営業再開(時短営業)

平 日 9:00~17:00

土日祝10:00~17:00

 

長松店

6月11日より営業再開(時短営業)

販 売 10:00~18:00

喫 茶 12:00~18:00

喫茶ラストオーダーは 17:00

 

新型コロナウイルスの影響による営業自粛に

ついて皆様には大変ご迷惑おかけ致しました。

どうか引き続きご愛顧のほどよろしくお願い

申し上げます。

 

「作品」

亡くなった母の荷物を整理していた。

亡くなって7年経つが、未だ整理が

つかない。

 

小指よりも短い鉛筆すら「捨てられない人」

だったので、とにかくその整理に時間がかかる。

 

生前、母の職業はアナウンサーで、ディレクターや

脚本など、その関連の仕事を兼務していたようだ。

その為、文を書き残すことが癖であり、仕事

でもあった。

 

長年、「読む」「書く」「話す」ことに

時間を費やし、その為に残した「作文」は

何百枚だろう?

全てに目を通すと、あと何年かかるやら(笑)

 

遺影の笑顔が曇りそうなので「作文」ではなく

「作品」と表現を変える(笑)

 

面倒とは言いながらも、その「作品」を

母に成り代わって、思い出すように読み

ながら楽しんでいる。

 

デパートの包装紙、スーパーの広告紙、

潰した菓子箱。何にでも「作品」を書いていた。

どんな紙も母にとっては「原稿用紙」

だったのである

 

そんな中、ある作品が目に留まった。

熨斗紙に書かれた「作品」で、

普通は裏の白紙部分に書くことが多いが、

敢えて熨斗紙の表に書かれた「作品」が

斬新に見えた。

 

手に取って読んでみると、熨斗紙の説明までは

書いていないものの、会食に行き、お土産を頂き、

お土産に掛けてあった熨斗紙だとすぐに分かった。

 

「作品」の登場人物は

兄、

兄がお世話になった大学の教授、

料亭の女将、

の四人で、教授にお誘い頂いて夕食をご馳走して

頂いたことが書いてあった。

 

冒頭、「その人は現れた」と始まり、

教授に対する感想が書かれていた。

 

日時、食事場所、景色、教授が遅刻した事、

遅刻の言い訳、言い訳をしていた時の表情、

女将とのやりとりなど、私もその教授や

女将の事を存じている為、40年近く前の

話も同席していたかのように「作品」を

楽しめた。

 

しかし、そんな「作品」に集中していたせいか?

その「作品」を読み終えてから、

初めて「原稿用紙」のデザインに気が付いて、

思わず声を出して驚いた。

と同時に「ご縁」を感じた。

 

その「作品」が書かれた「原稿用紙」は

私が和菓子店を開業する際、大変お世話になり、

影響を受けた社長様のお店「BAICAL」の熨斗紙

だったのである。

 

「BAICAL」は京都の老舗洋菓子店で、私が

百貨店勤務時代に無理をお願いして、お取引を

させて頂いたことがきっかけで、退職後も

色々なアドバイスを頂いていた。

 

当時、菓銘のつけ方については、社長様の他ならぬ

厚い思いや「拘り」を直々にご享受頂いた。

 

「京都に〇〇というお寺があって、

楕円型した襖の引手を表現して菓銘にしている」

「祇園の○○という場所の石畳を表現している」

など「外の人を受け入れない」という京都気質など

微塵も感じさせない。温かい言葉と分かりやすい

表現で私に説いてくださった。

 

現在は退任していらっしゃるようで、

随分とご無沙汰をしてしまっている。

 

 

そんな「BAICAL」と母の「原稿用紙」(表現が

失礼だが)で再会出来た。本当にご縁である。

 

菓銘は社長様には程遠いが、ご享受頂いた通り、

モノづくりとその表現には他ならぬ力を注いでいる。

モノから生まれるストーリーを大切にして。

 

先日も新商品が出来たので菓銘に悩んだ。

菓銘を考えるときには、頭の中に必ず社長様が

厚く語って登場して下さる。

 

加えて、「作品」から生まれた「ご縁」によって

兄、教授、女将、母と登場人物が4人も増えた。

私の「作品」の中で。

 

息子の事を考えて、私の「作品」や「原稿用紙」

は出来る限り少なくしたいものである。

昭和に生まれて令和を駆ける

私は昭和46年生まれ。

昭和生まれ、昭和育ち、平成を歩み、令和を駆ける。

 

駆けだした令和早々に、こんな大きな出来事が

起こるとは思いもよらなかった。

しかし、よく耳にする感染拡大防止を「国民一丸」

というフレーズから「昭和」を連想した。

 

私が生まれ、育った「昭和」は

「ぬくもり」溢れる時代だった。

 

生活用品には木製品が多く、木製品といっても

合板や加工されたモノではなく、無垢材である。

住宅はもちろん、まな板、しゃもじ、木桶、

木の「ぬくもり」に包まれて育った。

 

無垢材だけでない。「裸電球」もそうだ。

薄暗いが、「ぽっ」と温かい明かりを灯してくれる。

LEDにも「電球色」はあるが、明らかに違う。

私だけだろうか?そう感じるのは。

 

またデジタルが標準である今の若者には、

「音が悪い」と評価が低い「真空管」。

そっとレコードに針を落とすも「バチッ」と

「生音」が入る。

肌に溶け込むような「優しく」「温かみ」

のある低音がスピーカーから流れた。

 

家族には「臭い」と不評だが、

い草が香る畳も大好きだった。

夏休み、昼寝が好きだった私は、薄着で寝そべり、

畳の目を顔に写しながら、呼吸する畳と共に

寝息を立てた。

 

そんな「モノ」が五感に「ぬくもり」を

伝えてくれたのが「昭和」だった。

 

「ぬくもりあるモノ」は「人」が生み、

育ててくれたもの。

「昭和」は「ぬくもりあるモノ」が溢れる時代.

と同時に「人のぬくもり」が溢れた時代であった。

 

ここで、私が「昭和の象徴」として紹介したい

出来事がある。

 

私が小学2年生の時のことだ。

 

当時私は父の転勤で、神奈川県川崎市に住んでいた。

最寄りは私鉄小田急線の「生田」という駅で、

駅から徒歩10分ほどの住宅街に父、母、祖母、

兄2人の計6人で暮らしていた。

 

当時、母は「親友の会社を手伝う」と言って

西日暮里の食品工場までパートに出ていた。

いつも帰りが遅い母の代わりに、祖母が私達の

面倒をみてくれた。

 

「さみしいな」なんて言葉を口にしたことはないが、

母が恋しくなると「お母さんを迎えにいこうか」

と言って、兄と二人、小田急電車に乗って仕事場に

押し掛けた事もあった。

 

そんな母を迎えに行った帰りの事、

帰りの通勤ラッシュに巻き込まれた。

ラッシュといっても

今とは比べ物にならない混雑である。

 

列車が出発する直前に、

駅員が扉付近にいる乗客を押し込む。

そこに入り込もうとする乗客をまた押し込む。

また入りこむ。押し込む。

ひどい時には駅員が背中で押し込む。

「もう入らない」というところまで。

今では考えられない。

コンプライアンス?

そんなものは存在すらしない。

 

しかし、田舎から出てきた私達にとっては

その混雑が新鮮だった。

兄と「おしくらまんじゅう」をしながら、

笑いがこぼれた。

 

しかし、笑いもつかの間。

私達は降りる出口扉から反対側の扉まで押し込まれ、

全く身動きが取れなくなった。

しかも、私たちが降りる「生田」駅は

降りる人が少ない。

とても降りられる状態ではなかった。

 

「これは降りられないな・・・」

「どうしよう・・・」

と不安を漏らす兄と私に母は、

「次の次の駅でおりましょう。これは無理だわ。」

「いや降りようよ」

「無理・・・」

そんなやりとりをしているうちに生田に着いた。

 

かすかに扉が開く音が聞こえた。すると、

「ワッショイ、ワッショイ」

と大きなかけ声が聞こえた。

かけ声に合わせて、私達の周りに居た乗客が、

私達三人の背中を押し、列車から出してくれた。

とにかく驚いた。

むしろ「出られた」という喜びが先に勝った。

 

私は息苦しかった車内から解放され、

新鮮な空気を肩で大きく吸い込み、

ようやく気持ちを落ち着かせた。

 

そんな私をよそに母は、動き出す電車の乗客に

向かって手を振っていた。

 

「よかった・・・」と安堵した私の言葉を、

母は「あたたかい」という言葉で遮り、

助けて下った「恩人たち」に感謝した。

 

幼い私ではあったが、今でもその日の出来事は

はっきりと覚えている。

 

見ず知らずの困っている人に、

見ず知らずの人同士で助け合う。

躊躇なく、その場で一つになれる。

それが昭和は「自然」だった。

 

「人」が「人」にぬくもりを注ぐ。

「ぬくもり」に対し、心から感謝する。

感謝とその喜びを、また別の「人」に注ぐ。

そんな「ぬくもり」溢れる時代が「昭和」だ。

 

昭和生まれ、昭和育ち、平成を歩んだ私は

令和にこの「ぬくもり」を伝えていきたい。

 

「おせっかい」と言われながらも。

「師」

私にはかけがえの無い師がいる。

人生の「師」であり、経営の「師」でもある。

「師」無くして甘音屋も存在しない。

今の私も存在していない。

 

「師」と初めて会ったのは28年前の春、

面接の時だった。

 

少し濃いめのベージュのスーツに身をまとい、

明るい笑顔から溢れる今まで感じたことの無い

オーラのようなものを感じた。

 

学生である私の目線に合わせ、知らない「社会」や

「世界」の話を分かりやすくお話し下さった。

お話しは全てが新鮮だった。面接とは思えない、

私にとってとても「有意義」とは失礼にあたる。

そう「貴重な時間」であった。

 

「VIPとはああゆう人のことを言うんやな!」と

ボキャブラリーの少ない私なりの表現と感動を

私の帰りを待っていた母に熱く語ったことを今でも

思い出す。

 

「師」との思い出は話が尽きない。

仕事に対する疑問や悩みを抱えると、疑問を「解き」

悩みに対して「説いて」下さった。

不安を抱えると「助ける」のではなく「導いて」下さり、

枠にとらわれない私を「自由」に放して下さり、

時にそんな僕に対する反発からも「匿って」下さった。

思い出すと涙がとまらない。

 

そんな「師」が先日、急にご来店下さった。

持病を抱えながらも。

当日は顔色もよく、とてもお元気そうで安心した。

 

私はお会いして、コロナウイルスの影響など近況を

手短に伝えた。

残念ながら、あまり明るい報告は出来なかった。

 

すると「だから来たんだ」

と明るい笑顔と元気なお声で私の話を遮って

下さった。

最初は意味が解らなかった。

 

しかし、コロナウイルスの影響で滅入っている私を

励まそうと持病を押して会いに来て下さったのだ。

とすぐに気が付いた。

 

しかも自転車でお越し下さったという。

「健康のために」とあえて優先をつけて、

気を遣う私に逆にお気遣い下さる。

ご自宅から片道一時間、

どう考えても往復二時間はかかる。

「嬉しい」という表現では軽い、「感極」った。

 

いつもそうだ。

多くを語らず、遠くから温かく見守って下さる。

本当にかけがえの無い「存在」で「師」である。

 

「じゃあまた」

といつもと変わらず、多くを語らず自転車に乗り、

お帰りになる「師」の背中は、汗でびっしょりと

濡れていた。見えなくなるまで何度も何度も、

その背中に御礼を申し上げてお見送りした。

 

決して人前では涙を見せない「師の背中」を見てきた

私はぐっと涙をこらえたが、我慢出来ずスタッフに

「買い物がある」と出掛けたふりをして車の中で

大声で泣いた。

 

甘音屋にとって私は社長であり代表者である。

しかし「師」の前では、いつまでたっても未熟な

「泣き虫経営者」である。

 

こんな「泣き虫」を叱って頂きたい。

いつまでもお元気で頂きたい。そう心から願っている。

また「師」の背中に少しでも近づけるよう精進したい。

 

コロナウイルス自体は憎き敵である。

 

しかし、こんな時だからこそ一層深まる

「心の絆」に気が付く。

悪い事ばかりではない。

 

そう思って涙を拭いその日わざわざ届けて下さった

「師」から頂いた「笑顔」で社に戻った。